第103回-2 中央ユーラシア調査会 「キルギス政変その後」国連大学長 上級顧問/ 中央アジア・コーカサス研究所 所長 田中 哲二【2010/06/21】

日時:2010年6月21日

第103回-2 中央ユーラシア調査会
「キルギス政変その後」


国連大学長 上級顧問/
中央アジア・コーカサス研究所 所長
田中 哲二

1. 第二革命の発生
田中 哲二     政権の安定度は、国民一人ひとりの経済・福祉レベルの向上(=民度の向上)と、政権の民主化度によって相対的に決まってくるものと考える。私はキルギスの場合、あと5年もすれば、経済成長はあまり進まなくとも、かなり民主化が進み、その点が評価された安定政権が誕生すると見ていた。しかし、今回の革命の発生で民主化の先行が革命を可能にした形となった。
 4月にキルギスで起きた政変は、現地では一応革命と呼ばれている。つまり第二革命ということになる。2005年の第一革命とほとんど同様な経緯で進行した。第一革命と第二革命の違いだが、第一革命ではまず、アカエフ大統領は無血のままロシアに亡命した。しかし今回は公安部門の発砲で86人以上の死者と、1500人以上の負傷者を出している。2番目にアカエフはすぐに政権を手離したが、バキエフは現時点ではベラルーシで「大統領職を放棄していない」と言いはってっている。また今回は、南北対立の要素はあるにしても第一革命ほど明白でなかった。しかし、倒れたのは南部主導の政権であった。
 バキエフ大統領の次男、マキシムが2009年9月に「開発・投資・改革委員会(CADII)」の長官に就任し、経済的権益を独占したほか、一族が多くの要職に就いた。このことに多くの国民が反感をいだき、大規模デモに発展した。民主化もアカエフ政権の頃よりむしろ後退していた。バキエフは4月13日、プーチンに電話をかけ、ロシアへの亡命を希望したが、プーチンは断った。そこで彼はベラルーシへ行くことになり、ほぼ同時にマキシムはラトヴィアへ逃げた。そして逮捕を覚悟の上でロンドンへ入り、即日捕まった。ロンドンで裁判を受けることによりキルギスへの送還を回避しようとする行動とみられる。

2. 革命の要因
 革命の直接的な原因としては、2010年初に燃料や暖房費の大幅な値上げが行われ、特に貧困層に大きな影響を与えたことがある。また昨年7月のバキエフが再選された大統領選にも不正があったことも蒸し返された。やはり一番大きな批判は、ネポティズムによる一族への諸権限・権益の集中にあった。前記マキシムの専横に加え、大統領の実弟が大統領府警護局の長官を務めており、反政府デモの際には非常に厳しい取締りを行った。他の実弟は駐ドイツ大使や、駐中国大使の顧問をしており、長男は情報機関を掌握し様々な秘密調査で政治犯追及をしていた。前述の次男のマキシムはCADII長官を務め、内外の投資資金を支配したほか、そして電力公社や電話公社を民営化させた上で利益を吸い上げていた。そして非言論、報道の統制強化が行われてきたことへの反論もあった。これらの行動が、国民の顰蹙を買った。さらに、もう少し基本的なことを言えば、貧資源国ということもあり周囲の国と比べて経済が圧倒的にうまく行っていなかった。1人あたりGDPは実に隣国カザフスタンの10分の1である。また、大きな意味でのバックグランドとしては、反バキエフ政権色を強めていたロシアの中央アジア回帰ということもあったと思う。
 さらに5月中旬には南部で反暫定政権的な動きがあり、6月に入ってからはキルギス族とウズベク族の民族衝突という非常に大きな事件に発展した。北部の首都における政権交代や大統領の交代劇は、南部においてはキルギス族対ウズベク族という民族対立にすり替わってしまった。オトゥンバエワ臨時大統領はキルギス軍だけではとても治まらないとして、メドベージェフに2度にわたり平和維持軍(PKO)の派遣を要請したが、ロシア側は回答しなかった。民族問題や、宗教問題に絡む紛争に介入すれば、かなりの確率で泥沼化するので、簡単には踏み込めないというのが本音のようだ。
 この騒動で多くのウズベク系キルギス人が越境し、隣のウズベク本国へ逃げ込んだ。ピーク時には7万人ほどになったといわれている。また国内避難民も20万人から30万人に達したとみられている。オトゥンバエワ政権は、今回の民族衝突について「バキエフ前大統領の周辺が計画的に実施した破壊工作」という見解を示している。キルギス保健省は6月17日、累計犠牲者数について、死者191人、負傷者が1971人と発表したが、国際赤十字の現地の代表は、「死者は700人を超える」とし、さらに悲観的な見方としては「1000人を超える規模」というのもある。
 なぜ、北部における政権争いが南部の民族対立を引き起こしたという点であるが、暫定政権が、第二革命の終息と政権の正当性工作に時間を要している間に、南部のバキエフ派が活動を活発化させ、窮余の一策としてキルギス族とウズベク族の対立・紛争を誘導し、暫定政権の無力の証明と政権の非正当性を訴える拳に出たとみることが出来る。ただし民族対立を引き起こすための工作をしたのは、バキエフ・グループだけではないという見方もある。何といっても暫定政権は首都での政権交替の演出がせいいっぱいで南部に対するガバナンスが、非常に脆弱だったということにはなろう。
 それでは、民族抗争への誘導の本当の首謀者が誰だったかという問題になる。これについて政府は「バキエフ前大統領周辺が計画的に実施した破壊工作」、「11日に隣国の首都タシュケントで開かれた上海協力機構の首脳会議に合わせ、臨時政府の統治能力の欠如を見せつけようとする勢力が、キルギス族とウズベク族の歴史的な対立を煽った」という言い方をしている。
 バキエフ前大統領グループ説として次のような情報がある。5月中旬ごろには次男マキシムが、叔父でバキエフ大統領の実弟のジャヌィシに、ラトビアのリガから国際電話をした。ジャヌィシは政変時に大統領府の警護局長官を務めていた人物。2人の電話の話しあいが盗聴され、政府に筒抜けになった。そこではマキシムが、「1000万ドルを出すので狙撃手を含む500人の武装グループを採用し、100人を一組にして6月10日に5ヵ所で一斉に武装蜂起させる」といったものであったという。実際にこれに近いことが起きている。
 また「フェルガナ・ルー」という独立系のインターネットメディアがあるが、これによるとバキエフと組んで南部の経済権益を握っていたマフィアグループが、政権交代で権益(麻薬の密輸を含む)を失うことを恐れ、民族対立を焚きつけて騒動をおこし政権の交替を阻止しようとした可能性があるという。国民投票が実現し、新憲法案と暫定大統領が承認されれば、臨時政府の正当性が認知され、政権交代が確定してしまう。新政権は経済権益の必ず奪取に乗り出てくる。これを防ぐためにこのような煽動的行動に出たのだというのである。さらにキルギス族、ウズベク族の間では、1990年のオッシュ・ウズゲン事件(土地・水利権争い)など歴史的にも根本的な対立と怨念もあった。

3. 今後の見通しと問題点
 ここまで騒乱がエスカレートしてしまい、オゥンバエワを中心とする臨時政権が、短期間にこれを終息させて平和を回復させることは中々難しいように思われる。オトゥンバエワは2回ロシア軍のPKO軍としての出動を求めたが、拒否された。しかし、やはり早期解決には何らかの国際社会の関与が必要であろう。臨時政府の当面のスケジュールとしては、6月27日の憲法採択国民投票、10月10日の国会議員選挙、そして来年10月の大統領選挙がある。27日の憲法採択国民投票には様々な難しい条件があるが、オトュンバエフ臨時大統領は強行の構えである。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:貿易研修センター)

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担当:総務・企画調査広報部