第39回 IISTアジア講演会 「混迷のタイ情勢 ~対立の構図~」アジア経済研究所 地域研究センター 研究グループ長 重冨 真一【2010/06/25】

講演日時:2010年6月25日

第39回 IISTアジア講演会
「混迷のタイ情勢 ~対立の構図~」


アジア経済研究所 地域研究センター 研究グループ長
重冨 真一

重冨 真一はじめに
 3月から5月にかけて、バンコクのオフィス街、繁華街を赤シャツの集団が占拠し、最後は軍が投入されて衝突、市街戦のようになった。死者は計90人ぐらいで、けが人が1800人以上出た。タイは比較的、政治が安定しているといわれ、そのため日本からの投資も非常に多い。なぜそのタイでこういうことが起きたのか、そしてこれからどうなるのか。そう考えるとき、近場ではなく少し離れて事態を見てはどうかと思う。遠くから見ると、その場でのやり取りや駆け引きは見えなくなるが、大きな流れを捉える方が、今後を考える上で少し参考になると思う。将来については分からず、確実にこうだとはいえないが、少なくともある程度の範囲で予想はできるのではないだろうか。

1. タクシン派と反タクシン派による対立
 対立の構図については皆さんもよくご存知だろうが、タクシンという元首相の支持、不支持、反対で分かれている。支持派の市民団体では、反独裁民主主義戦線(UDD)という組織がリーダーシップをとっており、シンボル・カラーは赤だ。このグループを支持している人たちには下層の人が多いといわれ、議会内では野党のタイ貢献党、プアタイという勢力だ。逆にタクシンに反対する側では、市民団体としては民主主義のための人民連合(PAD)がリードしている。シンボル・カラーは黄色で、支持層はもっぱら中間層や上層だといわれる。議会内では、民主党など与党を支持している。
 タクシンという人は2001年に首相になり、4年間の任期を全うして2005年の選挙でも圧勝した。しかし、その年の秋ごろから反タクシンの人たちが集まり始め、黄色をシンボル・カラーにして街頭行動をやる。それが盛り上がり始めたのが、2006年に入ってすぐだった。街頭行動が盛り上がり、真を問う選挙をすることになったが、野党側はすべてボイコットし、裁判所はこの選挙を無効とした。そして解散はしたが選挙の結果が出なかったため、政権は宙に浮いた。さらに9月になって軍がクーデターを行い、タクシン政権は崩壊する。タクシンはそのとき外国にいたので国に帰れなくなり、軍は昔の軍人であるスラユットという人を首相に据え、反タクシン派の政権をつくる。
 しかしクーデターでつくった政権なので、長々とやっている訳にはいかず、約1年後に選挙が行われる。そして選挙で再びタクシン派が勝ち、タクシン派の政権ができる。これによって再び、黄色側が街頭行動を始め、首相府を3ヵ月くらい占拠し、最後は空港を占拠した。混乱の中、また司法がタクシン派の選挙違反などを問題にし、「政党を解散しろ」という命令が出て、もう一度、内閣を組閣しなくてはならなくなる。そのときにタクシン派の一部が反タクシン側に寝返りし、現在のアピシット政権は反タクシン派が多数になってできた。タクシン派側からすれば、軍の介入があって非常に不明朗な形で非民主的につくられた政権だという訳で、今度はタクシン派が街頭に出て、昨年はASEAN会議が中止になったりした。今年3月から5月にかけては大騒動になり、今のところ、それが抑えつけられて終わった形になっている。
 この2つの対立は、支持階層の対立だといわれ、それは大きく間違っていないと私も思う。農民を仮に下層とし、専門職や事務職を中間層とすると、タイでは下層の人口が2倍以上だ。ところが所得で見ると、中間層が農民の2.8倍を得ている。そして非常に差があるのが大卒比率で、教育水準にかなり差がある。しかし階層というのは宗派、民族などとは異なり、それほど明確に区切られている訳ではない。下層の人がリッチになれば中間層に入っていく訳で、そういう移動も起きる。そしてもう1つ、階層によって政治的な支持が違うといわれるが、下層が全員タクシン支持で、中間層が全員、反タクシンという風にきれいに分かれる訳でもない。下層の中にはタクシンを嫌だという人もおり、逆に中間層の中には赤シャツの運動に共感している人たちもいる。したがって階層を分けて政治支持の話をするのは、大雑把な話だ。そして下層というと、非常に貧しい人たちが立ち上がっているイメージかもしれないが、そういう訳でもない。最近、チュラロンコン大学の先生がある村で赤支持と黄色支持の人たちを対象に所得分布などを調べたが、その結果からすると、下層といわれる人たちは下層だが一番貧困の層ではないという。
開催風景 確かにタイの社会に階層差はあるが、このような差は昔からあり、ここ5、6年で急に出てきた訳ではない。問題は、なぜ階層という形で人々が意識して対立するようになったかだ。それがこの5、6年の変化で、やはり何かが変わったと考えるべきだろう。そしてもう1つ、意見の対立、利害の対立など、対立はどこの社会、国にもあり、その対立軸はいろいろある。思想的な違いや階層などだが、それは選挙で決めれば良く、負けた方も納得すれば良い。しかし、それが納得せず、なぜこのように混乱するのかだ。

2. 軍事政権、半分の民主主義、政治改革の時代
 ここでタイの民主主義発展がどのようになってきたのか、発展史の中で考えてみたい。タイでは終戦後、1945年以降、1973年までは、軍部のリーダーによる強権政治が行われていた。そのうち半分ぐらいは政党活動が禁止されており、この28年間に選挙は6回ぐらいしか行われなかった。また選挙はやってみるのだが、気に入らなければクーデターでつぶしたりしていた。これに対してはっきり意義を唱えたのは、当時、数が増えてきた学生だ。73年10月に学生が公然と異を唱え始め、これは10月14日事件というのだが、ラーチャダムナーン通りをものすごい群集が埋め、軍に退陣を迫った。このときは王様が学生の代表と会い、軍人である当時の首相他幹部が国外へ逃げた。これによって、軍事政権は崩壊した。
 その後、政党による民主的な政治になるが、あまり間を置かずに再び軍部と右派が力を持ってきて、学生や次第に力を付けてきた左派に対して攻撃をしていく。そして元首相が戻ってくるのに反対した学生たちに対し、学生集会を力で弾圧した。これが1976年10月のことで、10月6日事件といわれ、このときもかなり学生らが虐殺された。これによって政権はぐっと右に変わり、再び強権政治が始まる。活動家らで生き残った者はかなり森の中へ逃げ、タイ共産党と合流した。そしてゲリラ戦で政府に挑み、政府は軍事力を使ってそれを叩きにいく。このようにして、あちこちで軍事衝突が起きるようになった。
 しかし、実は「こんなことではもう治まらない」と思い始めた人たちが軍の中におり、「力ではなく農村開発をして豊かにすることでタイを治め、共産主義者の力を抑制しようじゃないか」という軍人らが出てきた。そういう人たちのアイディアを一番、現実化したのがプレームという人だ。彼は元々、共産ゲリラの活動が最も強い東北タイの司令官で、その後は陸軍の総司令官になり、首相になった。1980年から88年まで8年間、首相を務め、タイの首相では最も長く首相を務めた人だ。在任は大体80年代で、タイではこの時期は「半分の民主主義」といわれる。なぜ半分かというと、このときは政党が認められ選挙もあった。その中でたくさんの議席をとった政党が、中小政党なので連立政権をつくる。連立政権をつくると通常、最大政党のトップが首相になるが、そうではなく、このプレームを首相に推薦する。プレームは選挙に出ていなかったが、当時の憲法はそれを認めていた。つまり選挙に出ていない人、軍人出身のプレームを頭に持ってきて政権ができ、首相はプレーム、そして下の内閣に政党の政治家が入るという形だった。このプレームは軍、王室からのかなり強い信頼をバックに、重要なところでは官僚を重用して政治を行った。政党や選挙があるのだが、実際に一番上のアドミニストレーションがそういうものから離れているという意味で、「半分の民主主義」といわれる。
 1988年の選挙でプレームは引退し、枢密院という国王に対して助言する組織のメンバーになった。そして現在は、その議長になっている。プレームが引退してからは、いよいよ選挙で一番多数をとった政党のトップが首相になり、半分ではなく全面の民主主義になった。しかし、そのときの政権は汚職がひどく、ビュッフェ・キャビネットなどといわれた。1991年には軍がクーデターを起こし、これにはかなりの支持があった。ところが、クーデターをやった張本人の陸軍司令官が約束を破り、自分で首相になった。それに怒った市民たちが1992年ごろから活動し、運動が大きなうねりになってくる。それが1992年5月のブラック・メイ、暗黒の5月といわれる事件だ。このとき集まった人たちは、70年代に学生だった中間層の都市市民が多かった。このときも最終的に軍が発砲し、公称で50人以上の市民が亡くなった。そしてこのときも国王が登場し、市民側のリーダーと首相を呼びつけて、事態の収拾を図った。これによって首相は辞任し、政権が崩壊した。
 この経験を経て、タイ国民は軍による政治に戻ることはできないが、同時に政治家にまかせてもだめだ、と思っただろう。タイの政治は改革されねばならないということだった。このようにして1990年代は、政治改革の時代になっていく。政治改革なので、政治を良くしなければいけないのだが、では何が良い政治なのかというと、多くの人たちが参加できる政治だという。この政治改革を主導した人たちは、政治家は民衆の意思を本当には代表していないと考えた。なぜならば、選挙区で選ばれるときにお金を配って投票させ、票を買い集めているからだという。
 タイの選挙制度は、人口に非常に比例している。日本のような選挙区による1票の格差はほとんどなく、農村の人口が多ければ、そちらから代議士がたくさん出る。したがって、票を売るような連中がいるのがいけないのだということが背後にある。そこで、そのようにして出てくる政治家をコントロールしなくてはいけない、ではどういう仕組みにすれば良いか、というのが政治改革のポイントになった。1つは、そういう政治家が下院議員となり、議会をつくる訳なので、そういう連中を抑えて良識ある人たちをつくろうということだ。そして、上院議員もそのときから選挙で選ばれるようになる。
 もう1つは独立機関をつくることで、例えば選挙管理委員会や人権委員会で、国会や行政から独立した人たちによるコントロールがなされるようになった。また選挙制度自体も変えられ、選挙違反には厳しい罰則ができ、イエローカード、レッドカードがどんどん出た。また内閣に入るには補欠選挙があり、補欠選挙の費用を負担しなくてはならず、これは大変なことだ。したがって、選挙区選出議員は閣僚にはなれない。比例区もあるので、閣僚は比例区から来た人ばかりになる。
 さらにもう1つ、候補者に学歴要件があり、大卒以上でなければ立候補できない。タイの人たちは当時、大卒は立派な人だと思っており、こういう要件が付いた。そしてもう1つ、このときから小選挙区制が入る。それまでは中選挙区制で地盤を持っている政治家は、自分の仲間内なども一緒に当選させることができた。政党を変わっても大丈夫だったのだが、小選挙区制になると、その政党の推薦を受けなければそこで立候補できない。そして次第に二大政党制になるので、小さい政党をつくり、キャスティング・ボードを握ることはやりにくくなる。したがって、政治家個人の力を抑制して、政党としてコントロールする力をつくろうということだ。
 新しい政治改革を進めた人たちはどういう人たちだったかというと、もちろんとんでもない政治家がいるのに、政治家に改革をまかせる訳にはいかない。そこで、担い手の中心になった人たちは、進歩的知識人や公務員、社会活動家らで、私はこれを「ニュー・エリート」と呼ぶことにしている。そして政治改革を進める上で新しい憲法をつくろうと、憲法の起草をしていくが、憲法の起草議会には、公法学者、政治学者、そして地方の社会問題に非常に関心のあるインテリなどが選ばれた。この政治改革をしている間にも何回か選挙が行われたが、その間、選挙でひどいことが起きないように、選挙監視のボランティアも非常に盛り上がった。
 要するに、社会意識の高い中間層の人たちが参加して、政治改革を進めていった。その総仕上げが1997年の憲法で、彼らは「民衆版憲法」とニックネームを付け、「このように民主的な憲法はほかにない」と言っていた。この結果、1997年憲法で最初の選挙が2001年に行われ、このときにタクシンが登場する。このタクシンに率いられた新政党、タイラックタイ党(タイ愛国党)が、正確に言うと半数なのだが、すぐに他の政党を吸収して過半数を制した。

3. タクシンのポピュリスト政策、中間層との対立
 強い政党をつくるという意味での小選挙区制の効果は、意図どおり発揮されたといえるが、この選挙区制度だけでタクシンが出てきた訳ではなく、タクシンの戦術も重要だ。一言でいうと、タクシンはタイで初めてマニフェスト選挙を行い、農村住民に対して「私が当選したら、30バーツで医療が受けられるようにする」と言った。それまで農村の人たちは無保険だったので、家族の誰かがけがをしたり、病気になったら生活が崩れ、大変なことになっていた。30バーツは大体100円で、100円ですべて医療が受けられるという訳だ。そして各村に100万バーツずつ配るので、「それを使って皆さん、お金を借りてください」と言い、農民たちがそこから低い利子でお金を借りられるようになった。
 タクシンはほかにもいろいろ行い、ポピュリスト的な政策をマニフェストとして掲げ、票を集めることに成功した。そして当選後、次々に政策を実現していった。おかげでタクシンの影響は非常に大きく、4年間の任期を満了し2005年に再び選挙をしたときには、3分の2を獲得し圧勝した。 これはそれまで、タイでは見たことがないような状況だった。タクシンは元々、警察官僚だったのだが、辞めてコンピューター関係のビジネスを興し、それを通信などに拡げて成功、多大な富を持っていた。したがって政党をつくったときは、資金を使って有力な政治家をかなり集めた。
 タクシンがやったことは何かと考えると、1つは選挙を行う際、農村票、下層票に狙いを定めたということだ。有権者の数はこちらが多く、そこに狙いを定めるのは当然だ。そしてもう1つ、票を買うのではなく、政策で票を集めた。この2つ目は当たり前のことだが、コロンブスの卵で、タクシンが初めて試みた全く新しいものだった。それが大成功した訳だ。農村の住民や下層の民衆にとって、それまで選挙は票を売ってお金をもらうようなものだったが、そうではなく自分たちに利益をもたらす政策、あるいはそれを実施する政権を選ぶ機会となった。数の政治は昔からあったが、タクシンは数の政治の意味を少し変え、再構成した。
 しかし、人間は強くなると傲慢になるもので、タクシンは自分に批判的な人物を叩き始め、また自分と親戚関係にある人を軍や政府の要職につけるなどしていった。マスメディア、特に新聞は政府に辛らつなことを書いたが、露骨な弾圧はできないため、「ああいう新聞に広告を出すのはどうか」と他の企業に言ったりする。広告が来なくなれば新聞はやっていけないので、そういうやり方でメディアを抑えていった。2005年の選挙では、中間層もかなりタクシンを支持していたが、タクシンの行動が目に余るようになってくると、中間層はまず離れていく。そしてタクシンは人気が出たことで態度も偉そうになり、傲慢で王様にも敬意を払っていないという噂も出てきた。このようにして、「数の政治」をするタクシンが、ニュー・エリートや中間層にとって好ましからぬ存在になった。
 そこで中間層はタクシンを何とかして追い落としたいと思う訳だが、人数が少ないので選挙には勝てない。そのため街頭行動に出て、大規模な集会を開き、首相府や空港を占拠した。そして、そのときに国王の権威を使う。つまり国王の誕生日の色である黄色をシンボル・カラーにし、「国王を守るのだ」と言うようになった。同時にたくさんの訴訟を出して、司法に訴えた。司法はそれに答えるかのようにタクシンに非常に不利な判決を出す。選挙無効の判決もそのひとつで、それによって政権が空中に浮いて、軍が出てきてクーデターとなった。このクーデターを、少なからぬ黄色シャツの人たちは評価してしまった。「民主主義」を主張してきた人たちが、とにかくタクシンがいなくなれば、その手段は何でも良いというようになっていた。そして最後は今のアピシット政権が、権力を奪還していった。
 しかし、こうすると今度は下層の方がたまらないので、赤シャツによる街頭行動が始まった。彼らの街頭行動は、かなり下層ということを意識させるような手法を使っている。そして彼らは、自分たちを「プライ」と呼び始めた。この言葉は絶対王政のころ、王族や貴族に労役を提供した一般平民のことで、つまり自分たちを隷属の民であるとした。これは歴史学者しか使っていなかったような言葉だが、そういう言葉を復活させた。そして、支配している側を「アムマート」と言った。 この「アムマート」というのは古い時代の官僚、エリートたちのことだ。中間層の人たちが、1990年に政治改革をして、「良い人たち、立派な人たちで政治をしなければいけない」と言ったのに対し、「あいつらは良い人ではなく、『アムマート』だ」と言い返した。そしてもう1つ、面白いのは、タイで共産主義がかなり復権していることだ。
 このように今のタイではかなり階層の違いが自覚されるようになっているが、要因を整理してみると大体、このようなことではないか。1つは、選挙での投票という行動の持つ意味の違いが、数で勝る下層と、そうではない中間層との間で対照的になっている。選挙をすると勝つのは下層で、中間層はいつも負ける、これはタクシンが非常に受益者を特定した選挙をしたことの結果だと思う。そして2つ目は、皆が集合すると黄色と赤というようなシンボルを使うので、違いがはっきり出る。さらに先ほど「プライ」と「アムマート」という言葉について話したが、こういうことをフレーミングといい、物事を「このように見れば良い」と提示するものだ。
 また、これは新しい現象だが、タクシンも、反タクシン側のリーダーも皆メディアに関するビジネスをやっており、自分たちの衛星放送を立ち上げている。2000年ごろからはコミュニティ・ラジオという小エリアのラジオ放送が解禁され、いろいろなグループがそれをつくるようになった。それも赤や黄色に分かれていったので、黄色側なら黄色側の放送を見たり聴いたりすると、ずっとタクシンの悪口を言っており、自分たちが「正しい」と感じる。一方、赤側の方を聴いていると、ずっと黄色側の悪口を言い、タクシンがいかにすばらしいかという話をしている。これらは衛星放送なので、地方でも受信ができ、全国に広がってしまう。
 こう見ていくと、対立は単にタクシンに対する支持、不支持という問題ではない。いわゆる政治の考え方、政治を何で律するかというものの違いがある。黄色側が反タクシンの集会をしているときに、自分たちの政治はどういうものを目指しているのかということを、新しい政治、ニュー・ポリティクスという言い方で説明してくれた。彼らがいうニュー・ポリティクスでは、まず現在のような選挙による政治はだめなのだという。真の立憲王政をつくるには、良い人による政治をつくらなければいけない。それはどういうことかというと、選挙によらない代表も参加する政治にしなくてはいけないということだ。タクシンは自分の信任選挙の後、「俺には1600万票の支持がある」と言って騒いだ。これは明らかに数の政治を主張している。そして今回、赤側のUDDも、「権力を民衆に返せ」と言い、要するに「解散総選挙をしろ」と言っている訳で、政治のルール自体に対立が起きている。このようにルール自体が対立しているので、話が決まらない。
 黄色側は良い政治をすると言ったが、ではタイで一番良い人は誰かというと、答えはタイ人に聞けばすぐに出るのだが、王様だ。今の王様はチャクリー王朝、バンコク王朝の9世王でプミポン国王といわれる。現在82歳だ。このチャクリー王朝というのは、7世王のときまで絶対君主制で、王様自身が統治をしていた。しかし1932年に立憲革命が起き、王様は憲法に従ってシンボルになる形で、その後は立憲君主制になっている。8世王は非常に若いときに亡くなり、今の9世王は、この立憲君主制で即位した実質的には最初の王様だ。即位したときには、立憲革命のリーダーたちが政府を牛耳っていたので、王室にとっては厳しい環境だった。しかしその後のクーデターで立憲革命のリーダーたちが追い落とされ、クーデターに成功したサリットという首長はむしろ王様を盛り立てた。その時期はちょうどタイの開発の時期に当たり、王様は「開発の王様」として民衆の尊敬を得た。そして王室の地位、尊敬度は上がり、カリスマ的になった。したがって、黄色側はこのカリスマ性を使った訳だ。
 反タクシン派からすれば、この黄色を使えばタクシン側は黙ると思ったはずだが、そうはならなかった。農村の民衆にしてみれば、自分たちにとってありがたい政策をとってくれたタクシンを追い出すことは納得がいかない。最近は集会のほか、ウェブサイトなどでもかなり際どい王様、王室批判が目に付くようになり、政府も目を尖らせて、逮捕者が続出する状況になっている。

おわりに
 これまでの話をまとめると、タイでは戦後、1973年までは軍部による強権的な政治が行われていた。それに異を唱える人たちが現れて政治は混乱し、軍の発砲などで死者も出た。それを何とか治め、1980年代には軍が半分だけ民主化を進めるという政治になった。それをフルの民主主義にしようとしたところで、92年5月の対立が起き、何とかしようとニュー・エリートたちが民主化を進めていった。その結果、選挙でタクシンが出てきて、数の政治を再構成し、いわばニュー・エリートによる民主化と数の政治とがぶつかり合って今の混乱が起きている。
 こういう大きな歴史の流れで、今後を考えるとどうなるか。1つはゲームのルールが対立し、なかなか治まらないと言ったが、考えてみると良き人の政治では選挙によらない代表をどう選ぶのかが非常に難しい。そういう訳で黄色側のPADも昨年政党をつくり、選挙の準備を始めている。結局は、選挙で決着を付けざるを得ないというルールへ行くと思われる。そして実は、タクシン派と反タクシン派の間では、政策的な違いはあまりない。タクシンのポピュリズム政策は、その後の政権にもほとんど継承されている。選挙で勝とうと思ったら、やはり下層の票を集めなければどうしようもないので、タクシン以降はどの政党もかなりポピュリストになり、マニフェストをつくっている。問題は階層だが、現実に見ると階層差が近年拡大したという証拠はあまりない。東北部の農民とバンコクの住民の月別家計支出額を見ると、2000年から2006年の間にはどちらかというと格差が狭くなった。また農村では、高等教育を受ける人の数もかなり増えている。では、なぜまだタクシンにこだわっているのかだが、農村の人たちに聞くと「タクシンが最初に、こういう良い政策をしてくれた」という。
 今後については、同じような、一般大衆に裨益するような政策を掲げ、しかし若干の違いがあるという中から政権や政策を選ぶ状況になっていくだろう。それをカッコ付きだが、成熟した民主主義、普通の民主主義と呼んで良いと思う。誰が良い人か、立派な人かではなく、政策が良いか悪いかで人々は選び、その中で競争していくという訳だ。そういう社会になったとき、王室と国民との関係も変わっていくのではないだろうか。このように、民主主義のあり方、王室のあり方が大きく変わりつつある。そういう歴史的な転換期を、われわれは目撃している。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:貿易研修センター)

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担当:総務・企画調査広報部