平成24年度 第2回 国際情勢研究会 報告「大統領選挙後のロシア情勢と日露関係」新潟県立大学 教授/青山学院大学 名誉教授 袴田 茂樹 【2012/05/25】

日時:2012年5月25日

平成24年度 第2回 国際情勢研究会
報告「大統領選挙後のロシア情勢と日露関係」


新潟県立大学 教授/青山学院大学 名誉教授
袴田 茂樹 (はかまだ しげき)

1. 統一ロシアの支持率低下、下院選挙と大統領選挙
袴田 茂樹 ロシアでは2010年秋ごろから、与党・統一ロシアの支持率が低下傾向にあった。ロシアは腐敗、汚職に関して世界トップクラスといわれ、国民には閉塞感が生じていたほか、経済面や民族問題も大変な状況になっていた。国民は政治に対しアパシー(無関心)の状態に陥り、皆が自分自身の個人生活に関心を向けるような状態だった。しかし、2010年12月には、民族問題を契機として、この雰囲気が変わった。モスクワでカフカス系の人たちとロシア人の摩擦が起き、何千人ものロシア人が都心のマネージ広場に集まり、何百人の人たちが警察に拘束される事件が起きた。アパシー状態の中で、このような事態が起きたことに皆が驚き、政権としてもショックだった。
 昨年春ごろには、メドベージェフが、再び次期大統領に就任しようという気を本気で起こし、プーチンとの関係がギクシャクした。しかし、昨年5月には、プーチンが人民戦線という政党統一ロシアの枠を超えた組織を作り、メドベージェフとの間では勝負がついた。そして、9月24日の統一ロシアの大会で、メドベージェフが一応、プーチンを次期大統領に推薦し、それを受ける形でプーチンが出馬を表明、メドベージェフは首相になる、ということが判明した。リベラル派はメドベージェフを支持していたので、プーチンが再び大統領になることに失望したし、国民も「出来レース」に白けた。プーチンの支持率は長年7割前後と高かったので、プーチンは自分が大統領に復帰すると言えば、皆が喜ぶと思っていたが、実際には国民もマスコミも冷ややかな反応だった。さらに昨年の末には下院選挙、大統領選挙を前にして、反プーチンのデモも起きたので、プーチンにとっては大ショックだった。そのような状況だったので、今年3月の大統領選挙で当選したとき、プーチンの涙が話題になった。これは演出ではなく、万感のこもった嬉し涙だったと思う。
 下院選挙では、統一ロシアの得票率が前回の64%から49%に落ちた。そして様々な選挙不正が暴かれ、国民は怒り、実際の得票率は30%台だったともいわれ、これは大きな敗北だった。選挙の不正に対する批判とか、与党やプーチンへの批判の抗議デモや集会が各地で生じ、数万~十万の人々がモスクワやサンクトペテルブルクで抗議行動をした。極東の都市でも、同様の現象が起きた。これらのデモの参加者は、困窮ゆえにデモに参加した貧しい人たちではなく、ほとんどが中産階級あるいは知識階級だった。
 3月に行われた大統領選挙では、プーチンは63.6%の得票率で事実上、一人勝ちだった。実際には50%を少し下回っていたという分析もあるが、一応、公式的には50%を超えたので、1回の投票で当選が決まった。その後の世論調査では、実はプーチンの支持率が上がっている。デモや集会がテレビなどで大々的に放映されたことで、近年は政治的に無関心だった国民が1990年代の混乱を思い出し、「また政変、混乱が起きるのはまっぴらだ」と考えた。こうして、彼らは安定のシンボルであるプーチンの支持に回り、今度はプーチン支持の集会やデモが行われた。このようにして、プーチンの支持率は再び上昇した。わたしはこれを「逆バネ」現象と呼んでいる。
 現在のロシア国民の、国民的な原体験とも言える最も強烈な体験は、ソ連邦の崩壊とそれに続く1990年代の政治・経済面での混乱と貧困だ。ロシアはソ連時代、アメリカと覇を競った超大国だったので、ロシア人には大変な誇りや自信があった。しかし、90年代には世界の国々に「対露支援」を乞わざるを得ない屈辱的な状況に陥った。先進国の国々も、核を何千発も持っているロシアが、ユーゴのような混乱に陥らないで市場経済、民主主義の国に軟着陸してくれなければ、人類全体の由々しい問題だということで、各国はロシアを支援した。しかし、ロシア人にとっては「物乞い」に落ちぶれたような屈辱感があった。この屈辱的な状況を国民はトラウマ的に覚えており、プーチンもデモや反政府集会が起きたとき、「あの90年代の混乱がまた起きてもよいのか」と、意識的にこの国民的トラウマを脅しに使って、支持率を高めた。

2. 「新」プーチン政権の安定性
 この90年代の混乱に比べると、2000年以後のプーチン時代は極めて安定していたと言える。プーチンに対する高い支持率をもたらしたものは何かといえば、4つの要因があった。
 一つは、オイル(ガス)マネーだ。プーチンが2000年に大統領に就任した頃から、偶然なのだが国際的なエネルギー価格が跳ね上がった。これはプーチンの経済政策とは無関係なのだが、ロシア国民の間では、「プーチン大統領のお陰で、豊かになった」というイメージが広がった。
 第2の要因は、90年代の屈辱の体験の反動である。「90年代のようなひどい状況は、もうコリゴリ」という気持ちが、安定のシンボルとしてのプーチンの支持率を高めた。
 第3の要因は、日本の民主党と同様の、バラマキ政策によるポピュリズムである。選挙が近づくと軍人や教師の給料や国民の年金を増額するなど、様々な人気取り政策が出された。
 そして第4は、反欧米政策、ナショナリズムあるいは大国主義である。ソ連邦崩壊後のロシアはアイデンティティの危機に陥っていた。国民をまとめる手段が消え失せていたのだ。帝政ロシア時代には、ロシア正教が砂のような社会を固める独特のセメントの役割を果たしていた。そしてソ連時代には、共産主義のイデオロギーがその役割を果たした。しかし、ソ連崩壊後、ロシアはアイデンティティー・クライシスに陥った。ロシア正教も共産主義も風化する中で国民をまとめる手段は、結局のところ、ナショナリズムあるいは大国主義しかなかった。プーチンはこの四つの要因によって高い支持率、あるいは安定を維持してきたと言える。
 今後のプーチン政権の安定度を考えるには、この4つの要因が今後も機能するか、またそれに代わる安定要因があるか、ということを考察すればよい。プーチンの高い支持率と安定を保証してきたこれら4つの要因は、今後はいずれも維持することは難しく、何れの要因も言語は弱まるか消えるとみられる。もう1つ、5つ目の要因を挙げるとすれば、従来の反体制運動や野党の活動は、選挙法、その他で抑えることができた。例えば、7%以上の得票がなければ国会に議員を出せず、大統領に立候補するためには200万の署名を集めなければならなかった。このような野党抑制のシステムも安定要因になっていた。しかし最近は政権批判のデモなどが起きる中で、メドベージェフが「選挙法を改正し、野党もしっかり活動できるようにする」と約束し、プーチンもこれを引き継がざるを得ない。したがって、5番目の安定要因も今後、続けられるという保証はない。
 では今後、新たな安定要因が生まれるか。ひとつは中間階級が、ロシアで初めて育ってきたことが挙げられる。歴史的にはどの国も、中産階級が育つことによって初めて社会が安定している。ロシアでもそのような新たな要因が生まれつつあるかもしれない。しかし中産階級は両刃の剣である。つまり、中産階級は一般的には安定要因だが、最近のロシアでは、体制批判のデモをしているのも中産階級である。「アラブの春」でもむしろ、インターネットを通じて中産階級、知識層が大きな役割を果たしている。したがって、中産階級の台頭は、必ずしも安定要因になるとは限らない。そういう意味では、プーチンが大統領に復帰したので、ロシアは今後安定するという見解は、楽天的でナイーブな見方ではないかと私は考えている。

3. 外交論文「ロシアと変わる世界」と対日関係発言
 プーチンが今年2月に発表した外交論文「ロシアと変わる世界」は、アメリカや北大西洋条約機構(NATO)に対する対抗意識が強く表れており、また中国やインド、北朝鮮などに触れているものの、日本には一言も触れていなかった。しかし、ロシアは資源依存の経済からハイテクなどを基にした産業構造へ転換したいと考えており、その点で日本に対する関心も強い。
 日露関係では今年3月、プーチンが朝日新聞の若宮啓文主筆を招いて懇談した。そこでは、プーチンから、領土問題について立ち入った発言があり、日本のメディアでは「プーチンが領土問題を本気で解決しようとしている」として、大きく取り上げられた。しかし、インターネットのプーチンの公式サイトにロシア語で出ていた全文を読んだところ、日本の報道内容とは随分異なっていた。プーチンは領土問題について、「最終的に解決を望んでいる」というような報道がかなりなされたが、実際には「最終的に解決」ではなく、「幕を引く」、「閉じる」といったニュアンスの言葉を使っていた。これはつまり、前向きに「解決させたい」と言ったのではなく、この問題はもう話題にせず、「幕を引きたい」と述べたということだ。
 1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後、歯舞、色丹の2島を日本に引き渡すという合意が、その後の東京宣言では、4島の帰属問題を解決し、平和条約を締結するという合意がなされた。プーチンは日ソ共同宣言について、2000年に初来日した際、大統領として初めて、その有効性を認めた。しかし、今回の会談でプーチンは、「引渡し後も2島の主権が、どちらのものになるかということは、あの条約には書いていない」などと発言し、「引き渡し」と「返還」は異なるとしている。この点について、駐日ロシア大使やロシア外務省の対日責任者に聞いたところ、いずれもこの部分に注目するのは正しいという見解であった。
 プーチンが大統領に就任した頃、実は北方領土問題の交渉は進んでいた。しかし、プーチンは大統領に就任してから、国後、択捉の交渉を本気でしようとしたことは一度もなかった。一方、ロシア側はその前に、公式の解釈として、「2島引渡しで最終決着である」という見解を示していた。日本側は2000年に、問題解決に資するよう「日露フォーラム」を作ったが、翌年、モスクワで開かれたフォーラムには専門家の1人として、2島論者の和田春樹東大教授が送られた。このためロシア側は、日本が建前は「4島」と言っているものの、内心はもう「2島論」で手を打つつもりなのだと思った。これは、当然のことだ。その後、小泉純一郎首相が「日本との帰属問題を解決して」という発言をし、この「帰属問題」というのはニュートラルな表現だったが、ロシア側はそれを強硬論と解釈した。
 ロシア側は2005年に初めて、「4島がロシア領であることは、第二次世界大戦の結果で、国際法的にも認められている」と馬鹿なことを言った。このため、2006年に私がプーチンに会ったとき、「なぜ、あなたは強硬論に転じたのか」と聞いたところ、「最初に強硬論に転じたのは、日本側ではないか」と言われた。私が言いたいのは、プーチンは一度も国後、択捉の交渉を本気でしようとしたことはないということだ。それが事実だということを、知っていただきたい。

(敬称略 / 講師肩書は講演当時 / 文責:貿易研修センター)

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担当:総務・企画調査広報部