漂流とアメリカ生活
万次郎は足摺岬の中ノ浜で生まれた。14歳の時宇佐の漁船に雇われ、1841年1月、5人の仲間と初漁に出て嵐に遭い漂流した。小さな漁船で過酷な生死の間をさまよい7日目に伊豆諸島の無人島烏島に漂着し、5ヶ月半のサバイバル生活を送る。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウイリアム・ホイットフィールド船長に同年6月救助された。日本は鎖国のため帰国できず、船長は5人をホノルルで一旦降ろし、万次郎だけアメリカに連れて行く。アメリカ東海岸フェアヘーブンの船長の家で温かく迎えられ、ABCから高等数学、航海術等の教育を受けた。日本人アメリカ留学生第一号である。10年後、鎖国の日本の支配下にある琉球王国に上陸し帰国した。
開国に役立ったアメリカ情報
ペリーの来る二年前のことで、当時、日本にアメリカ事情を知る者がなく幕府は万次郎を江戸に呼び出し、幕府直参に取り立てる。漁師から武士になることは極めて異例なことである。そこで、万次郎は幕府高官にアメリカ事情を伝える。その主なことは、アメリカでは国主を人民が投票で選ぶこと。アメリカの捕鯨船が遭難した時、それまでは鎖国のため罪人のように扱っていたので、乗組員の救済と物資の補給の要水。外国船は長崎港に限られていたが、奉行の取り次ぎで時間が掛かるのでアメリカ人はそのようなことはしない、必ず、浦賀か江戸に来て開国を直訴するだろうと、アメリカ人気質を交えペリー来航の目的などを予言している。結果的に見て神奈川条約は万次郎の予言通りであったことが分かる。後にクーリッジ大統領は「The return of John Manjiro to Japan was equivalent to our dispatch U.S. ambassador to the country, because of his successful effort to assist the Japanese Shogunate in understanding the true nature of our country. This allowed Commodore Perry a more welcome reception upon his arrival than might have been expected otherwise. Calvin Coolidge 30th President of the United States(1923−1929)」と言っている。万次郎は自国日本よりアメリカの方に評価が高い。万次郎は英語ができるのにアメリカに有利なことをしないか疑われ、交渉はオランダ語を介して行われ、万次郎は英語の通訳もしていないし、ペリーにも会っていない。しかし、ペリーは英語の出来る日本人、万次郎のことを知っていた。
万次郎は捕鯨船にも乗り、操船技術を買われ副船長、一等航海士となる。江戸時代当時の日本では世界に通じるただ一人の航海士であった。また、或る時、船長から貰った手紙には「We are looking forward to the time we can trade with your country…」と貿易のことが書いてあった。後に三菱商事の創始者岩崎弥太郎、日米貿易の創始者森村商事の森村市左衛門とは親交厚く、これからの日本は海外に目を向けなくてはならないことを説いた。福沢諭吉、坂本龍馬に与えた影響も大きかった。この手紙が貿易に大きく関与したものと思われる。
万次郎は英語を日本に伝え『日米対話捷径』という英会話書を作った。その中に「ABCの歌」があり、この歌を日本に伝えた最初である。英文法の本を始めて日本に持ってきて、英語を志す者の必読の書となる。万次郎の隠れた大きな功績であった。また、アメリカの『ボーディッチ航海術書』を翻訳して日本の航海術の基礎となった。
咸臨丸でアメリカに行った時、持ち帰った書籍、ミシン、カメラ等はアメリカ文化を日本に伝えるものであった。
「隣人愛」を実践した人生
ホイットフィールド船長は「隣人愛」を不言実行し万次郎に示した。聖書の「Good Samaritan」(ルカ伝)の話を思う。
万次郎は船長に対する大きな恩を何で返したか。それは船長個人に対してではなく、他の人に対して船長から受けたと同じことをすることであったに違いない。万次郎がアメリカで身につけた最も大切なものは、まだ日本では理解されていない「隣人愛」であったろう。万次郎のその後の行動をみるとそれが分かる。万次郎は外で食事すると、残ったものは必ず折りに入れさせて持ち帰った。その折りを乞食に渡していたばかりでなく、親しそうに話をするのが常であった。乞食の親分が万次郎の自宅に盆暮れに御礼に来た。家人は何も知らないのでいやがったので、万次郎は「そのような運命に落ちた人達が可哀そうなのだ」と言って家人を諭した。上下の隔てのない人間同士の対等の付き合いは、乞食に対してだけではない。大名に対しても同じであって、媚びることなく対等の話をした。そうでなければ、封建社会の象徴であるような大名に向かって、「アメリカでは投票によって、賢い人が国主に選ばれる」とは言えなかったであろう。「万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す」と言われていた。封建社会の中で「隣人愛」をつらぬいた万次郎は、波乱万丈の生涯を満七十一歳をもって閉じた。
150年に亘る両家の交流
万次郎と船長以来両家は代々親しい交際が現在も続いており、中濱家の者は皆一度はフェアヘーブンに表敬に行く。今は両家共五代目同士の交流が行われ、交通機関が便利になり、毎年一回は会っている間柄である。
船長4代目ウィラードが真珠湾攻撃のニュースをはじめて聞いたのは軍艦に乗っていた時のことであったという。その軍艦が日本に向け出撃することを聞くと、彼はすぐに軍艦を降り沿岸警備隊に転属した。自分の乗っている軍艦から撃った大砲の弾が、万次郎の子孫にもし当たったらというのがその理由であった。万次郎の子孫のいる国を攻撃したくなかったのである。一方、戦争当時風船爆弾というのがあった。和紙で作った大きな風船に爆弾をつけて日本から偏西風に乗せてたくさん飛ばし、アメリカ本土を爆撃した。私はその話を聞いて船長の子孫の家に当らなければよいがと思った。ウィラードも私も互いに敵国同士となりながら、全く同じことを考えていた。国家同士の戦争と個人の友情は別のものであることを知った。
日本が鎖国だったころより今日に至るまで、一世紀半以上にわたり、両家のつながりは少しも変わっていない。
国境を意識したことのない敬意と友情に満ちた心の絆は、これから先いつまでも続くことと固く信じている。
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