プロフィール:1980年西陣に移住し、つづれ織に従事。82年独立し、つづれ織の独自研究、創作活動を続け、1987年本綴織秀作展での受賞を皮切りに数々の賞を受賞。今年09年の西陣織大会では出品作「爽」で文部科学大臣賞を3年連続で受賞。京都西陣爪掻本つづれ織伝統工芸士、西陣織工業組合理事、西陣伝統工芸士会幹事、小玉紫泉つづれ織工房主宰。
-西陣織の中でも、つづれ織を選ばれ、はじめられたきっかけを伺いたいと思います。
小玉:私は、もともと学生時代から洋服のデザイナーになりたかったんです。自分のブティックをもつのが夢でした。それで子育てが終わる頃にはできるように、結婚した頃から洋裁の勉強をしていました。でも、西陣に嫁ぎ、お姑さんに「西陣に来たら、西陣の仕事をしなさい」と言われたのです。しかし、今から30年前の西陣も斜陽化しつつある時期でしたので、皆採用を断られた中、たまたま募集を見て入ったのが老舗のつづれ織屋さんでした。何も知らずに入りました。
つづれ織は精密に糸を斜め34〜35度に固定をさせていかないとむらが出ます。左右も合ってないと傷物になります。入社1日目は、織ってはほどいて、結局1センチしか織れませんでした。それで2日目は3センチぐらい。そんな世界ですので、今でも20センチの中に1000回織るんです。きちっと織らないといけないのを1000回織って、やっと20センチになるんです。ですから、1日に1メートル織ったら1人前という位の世界です。織り師が何十人もいる会社でしたが、一から教えていただいて、1年間は無地織ばかりを織りました。そのとき私は28歳でしたが、柄織は「20歳までに覚えないとできない」と言われましたが、どうにか1年たってから教えていただきました。でも、半年たって簡単な柄を2本ほど織らせていただいたところで、お姑さんが病気になって、下の子もまだ3〜4歳で、休業したいみたいなことを言いましたら「辞めるんですか」って言われ、もう二度と行けなくなっちゃって、それで会社を辞めました。それでどうしようかという時、主人が「独立しろ」って言ったんです。
-西陣のような伝統産業の地での独立は、多くのご苦労があったことと思います。どのように困難を克服されたのでしょうか。
小玉:そうですね。独立して織り始めたとはいっても、帯はとても材料費が高くて、帯を売らないと次の帯が織れない状態でした。それに、基礎だけちょっと習っただけでほとんど柄を習っていませんでした。織の学校もあるのですが、何十万ってかかりますし、主人も公務員ですし両親もいましたから。自分で『あの時にこの人はこんな音を出して、こんな格好をして織っていたな』ということを頼りに柄を織りました。好奇心が強かったから、自分が柄織りをさせていただけない間も人の織りを見ていましたので出来たのだと思います。また、お客さまとお話しできなかったらいけないと思って、染めや着付などの他いろいろ習いに行きました。ですから、最初の間は普通の方より時間はかかったかもしれません。
最初は帯を売る場所さえありませんでした。大阪、神戸、西宮とあちこちの呉服屋さんに売りに行きましたが、全部だめでした。門前払いがほとんどで、希に見てくださったところも、やっぱり信用がありませんでしたので。また、「こんなにきれいに織れているのは、機械じゃないか」と言われて。機械はその当時でも2000〜3000万円はしました。機械を買うお金があったら、こんなん売りに来ないと思ったりもして。(笑)また、本物のつづれ織を見たことがないお店もたくさんありまして、機械と手の爪のつづれとの違いがわからない方もいっぱいいらして、そういうところに教えに回ったような形になりました。
でも、ぜんぜん売れませんでした。これはどうしたものかと考えて、結局、賞を取るしかないと考えました。1993年からほぼ毎年のように、出展した年は全部賞をいただきました。でも、いろいろ言われましたよ。素人発想ですので「こんなんつづれの柄と違う」「これは織機の柄や」とか、賞に入ったのはおかしいって言われてね。でも、クレームをつけられた方がその3年後には「つづれの柄ゆうてこだわってたら、賞は取れへんで」って他の人に言ってましたけどね。(笑)
-なるほど。西陣の方の意識も変えてしまわれたんですね。新しい発想がすごく良かったんですね。
小玉:みたいですね。そうやって帯を売り歩いているときに、私、図案を習おうと思いますっていう話をしていたら、何軒かに言われましたね「習ったら、だめっ」て。習ったら他のつづれ屋さんと同じになってしまうから、同じだったら老舗に皆が行くからと。素人発想は意外と面白いからと。私も1枚5〜6万、7万の図案は全部買えないですから、自分の図案とを混ぜて売りに行っていましたが、パッと分けられてこっちがいいって。「えっ?」と思ってね。いやそっちは図案家さんの図案でしょって言われて。見たことあるよって。
そこで聞いたのは名言だと思うんですが、「西陣は女性が機を織ってるけれど、男性が図案を書いて男性が企画するから、西陣の柄は男性柄だ」っておっしゃったんです。西陣って男性社会なんです。ですから、女性がすべてをやるっていうのは皆無だから、あなた頑張んなさいっておっしゃってくださって。それが最初の2年目くらいです。それがずっと励みになって、自分のデザインで賞取りに励みました。
コンテストの審査員は、つづれとは関係のない人が多く、当時の近畿通産省のお役人、府や市、伝産関係の課長さんとかがこられるんです。ですから、つづれの柄と違うのに賞に入ったって言って文句を言われるわけです。でも、賞を取り重ねていく段階で、問屋さんのほうから取引してくれっていうことがどんどん増えていきました。
基本は私が締めたい帯です。よそのものは一切参考にしません。また、デザインの他に織りの工夫もいろいろしましたので、そこから自分のオリジナルが始まりました。賞を取る前に、オリジナリティのあるものを作るにはどうしたらいいかということを真剣に考えました。その時に一番きっかけになったのが、「一竹辻が花」の久保田一竹さんの講演の最中に閃いた「立体的でかつ芸術的な帯をつくろう」という事でした。そこで、いろいろ織りを変えていきました。
そして、(昭和63)1988年につくった作品が「Sunset」です。この織り方は立体的で厚みがありますので、この感じを生かした油絵のようなデザインにしました。この帯が京都新聞社賞をいただきました。そのときに職人さんが皆見に来ますが「これ、わざとこうしてあるのよ」って言ってるんですよ。普通の織り方を知らなかった私が「普通はどうするんですか」って聞いたら「またまた」って言って、誰も織り方を教えてくれませんでした。いろいろな方に聞いたんだけど、何冗談言ってるのっていう感じで誰も教えてくれなかったんです。本当に素人ゆえですね。結局1年後に、普通はこう織るんだっていう事が自分でわかりましたけどね。
そして、独立して1年後位の柄織りの練習を始めている最中に、主人が人を雇いなさいって言ったんです。ご近所につづれ織りのこんな人がいるって言った途端に「じゃ、その人を雇おう」って言い出して。お給料は初めは赤字でもお支払いしていました。
それまではデザインだけで、柄だけで勝負してたんですが、試行錯誤のうえ、いろいろな織り方を考えだしました。1994年にコンテストに出品した「アンデス風幾何文様」は、爪で織るしかない織です。「こんなのはつづれじゃない」と言われ、何度も審査を繰り返して、結局3位になりました。でも、一般公開ではその作品に黒山の人だかりができ、人気はすごいものがありました。ちょうどバブルが弾け、注文も少なくなりましたので、これはチャンスだと思い、織り方の研究をいたしました。その中で帯に使えるものを集めて発表したのが、「アンデス風幾何文様」で、3年ぐらいかかって研究したものの集大成でした。ですから、賞とかではなくて、皆さんの反応にすごい興味がありました。
あとは、やっぱり人との出会いっていうか、人の言葉っていうのはすごく大事で、最初組合に入らせていただいた時が1983年です。入ってから、皆さんに「頑張って」ってかわいがられていたわけです。親戚にその話をしたら、「かわいがられてるうちは、あかん、嫌われるようになって、一人前だな」って言われたことがありました。その時はその意味がわからなかったのですが、その後「こんなんつづれじゃない」って、いろいろなことがあちこちから聞こえてきたときに、「これか」って思って。だからその言葉がなかったら、すごく辛かったと思うんです。
それとやっぱり、名前ですね。「小玉紫泉」は1983年に、組合に入ってすぐ安倍晴明神社で付けていただいたんです。やっぱり女性だということに甘えちゃいけないという気持ちがありましたから、名前も変えました。
-これまで最も印象深かった作品、ターニングポイントとなったお仕事について教えてください。
小玉: ひとつは、1994年にグランプリと技術賞をいただいた「月影」です。これは横糸を織っていないんです。特殊な糸で熱処理して止めていますが、これをあみ出したときにすごい話題になりまして、ここからもう爆発的でした。そこから西陣も変わりました。
また、翌年の図案家さんの入札会のときに、素晴らしいデザインがあったんです。皆さんが、これはすごい図案だと思うけれども、皆が敬遠していた図案です。私は買う気はなかったんですけど、「こんなのは小玉さんしか織れない」という方がいて、それまで、私のことを「アイデアだけで技術はもってない」とおっしゃっていた人でした。図案をあてがわれちゃったの。だから、こっちは女のこけんにかかわるから。(笑)それで、織ったら見事にグランプリいただきまして。実際は4カ月間、どうやって織ろうかって毎日睨んでいました。図案で完ぺきなものをまた同じように織っても、良いものができるとは限らないんです。いろいろな表現ができますから、絵を描くのと一緒です。織るのに1カ月半かかって、結局それはだめだったから切りました。そして、その後2カ月半かけて織ったんです。だから、もう商売どころじゃなくて、自分の名誉のためです。そして、この「動(どう)日本海」を織り上げた時に初めて技術を認められたんです。ですから、これが私の中ではターニングポイントです。これは、つづれ業界の皆に認めていただいた帯です。使っている銀の糸は2色だけですが、モノトーンでこの迫力を出すというのに挑戦して、皆さんから文句なしの技術賞と認められました。
-伝統工芸士となられ、その責任を感じられる時はどんなときでしょうか。また、作品
を製作するにあったて、一番大切にしていることは何ですか。
小玉:伝統工芸士は、問屋さんから資格があるなら取ってくださいと頼まれてです。伝統工芸士は、現在全国で5000人ちょっといらっしゃいます。現在の規定は、12年以上の職歴と、組合が技術を認めるということです。伝統産業品に関してのペーパーテストがありますが、つづれ織に関しては1問くらいしか出ませんでした、勉強は一生懸命しました。私がずっと頑張ってこられたのも、そうやって下積みのときに買ってくださったお客様があったからで、それに対するお礼は何かと思ったら、私が有名になることが一番のお礼だと思い、私自身は好きなものを作っているだけでいい人間なんですけど、そういう意味でこの資格をとりました。
でも、私はよそ者だからやってこられたと思います。西陣にどっぷり浸かって、業界に嫌われないように作品をつくっていたのでは、また、人と同じもの作っていたのではやっていけないし、共倒れになります。私が勇気をもっていろいろな作品をつくることによって、よそも新しいものにチャレンジしてくれます。オリジナリティと、それから楽しく織ることが、お客様が楽しいと感じられると信じています。うまく織れている時ってすごく気持ちがいいんです。だからお弟子さんたちにも言うのは「自分がこれなら締めたいという帯を作りなさい。これは締めたくないというのなら、もうその帯を作ったらいけない」って言うんですよ。どこか悪いのなら、その悪い場所を直して作らないと、自分がとにかくお金を出してでも欲しいと思う帯を織るようにって言っています。
-最後になりますが、これからチャレンジしたいことを教えてください。
小玉:私自身はもう主人が6年半前に亡くなっています。それから、もう今の人生は余生だと思っているんです。(笑)だから、やっぱり今まで支えてくださった方への恩返しを思うと、大きな意味では「eco」。地球が大切、人が大切っていう感覚になってきまして、それで今年の個展ではエコを訴えたんです。自分の中での新しいテーマです。ツバル国をテーマに展覧会を催しました。地球環境にちょっとでもかかわるような作品をいっぱい発表しました。今、東京でも場所を探してくださっていて、同じような個展が東京のどこかでできる可能性があります。
それから、小物他いろいろなものに今、挑戦させていただいています。私は自分がブランドだと思っているから、西陣も皆さんブランド意識もたないといけないと思うんです。人のまねするのではなくて、自分のオリジナリティで勝負する。西陣の織りの技術は世界一だと思っていますので、もっと西陣はブランド化しないといけないと私は思うんです。
うちのは帯を見たらわかるといわれます。図案家さんに「図案は必要ない」といわれた縞々の名古屋帯の夏物の絽があります。この帯は文部科学大臣賞(トップ賞)をいただきました。私の特徴は、通常のつづれ屋さんでは同じ幅でいくところを全部バラバラの幅にしています。また、最初から最後まで繰り返しは一切していません。手織りの味を出すために、わざとです。また、これは「波おさ」といって、つづれ屋さんが「昔はこんなんうちでもやっていたよ」とおっしゃるものですが、昔やっていただけでは賞は取れません。よそもまねしようとしていますが、何かが違っていて、問屋さんからは、これは「もう市民権を得ていますよ」と言われています。
それから、今年のヒット商品があるんです。組紐ですが、私のところの草木染めのつづれ糸を、組紐屋さんにお願いして組んだものです。糸がつづれの糸だから太くてデコボコした感じになるんです。それがまた味になるし、高級感が出るとえらいお褒めをいただきました。 出しただけ全部個展で売れちゃったんです。墨染、生藍、ザクロ、天満宮の天神さんの梅などで染めた草木染です。去年は、絽っていうので自分で作りました。とにかく毎年いろいろなことをチャレンジしています。どんな反応があるのかがすごい興味があります。
英国での展覧会オファーなど今後に向けてさらに充実した日々を過ごされている小玉さん。人気作家だけに作品の贋物も出回っているようで、特許をとる以外にもマーク等での対策も考えられているとの事。ただ、「自分ではそんなにまねされているというのもわからなかったし、有名になっているっていうのもわからなかった」と、北野天満宮から程近い小さな工房で、大きな夢を織り上げてきた小玉さんは、そう謙虚に語られた。
小玉紫泉つづれ織工房 HP:http://jpn.shicen.com/
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