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「成長の夢」にまどろんだ戦後社会の姿/東日本大震災が意味するものは? | 共同通信社 文化部 文化部長 金子 直史【配信日:2011/6/30 No.0196-0799】

配信日:2011年6月30日

「成長の夢」にまどろんだ戦後社会の姿/東日本大震災が意味するものは?

共同通信社 文化部
文化部長
金子 直史


 東日本大震災は、日本社会が暗黙の前提としてきた「平和と安全」に対する信頼を、ずたずたに引き裂いた。そこで見えてきたものは、バラ色の未来を掲げた「成長の夢」にまどろむばかりで未来世代への責任を忘却した戦後日本の姿だった。


 東日本大震災が起きたとき、私は東京・汐留にある共同通信社ビルの20Fにいた。面積は決して広くない、まるで鉛筆が立っているような社屋が右へ左へとゆっくりと大きく揺れた。ビルを揺さぶる大きな振幅が、いったい何分続いただろうか。机に積み重なった書籍や資料は床に崩れ、私は同僚たちと半ば引きつった笑顔を無理して交わし合い、その後はテレビの中継に見入り、仙台支社の記者たちが送る速報に耳を傾けた。私が所属する文化部というセクションは、政治・経済・社会をはじめとする各分野で起きる現象の意味を読み解き、「文化論」として定着させることを仕事の一つとしている。しかし、徐々に明らかになっていった震災の実相は、事柄を理解するための単純な図式をはるかに超えていた。その日は職場で夜を徹して、間断なく鳴り続ける緊急地震速報を聞き、テレビでは日本列島図の太平洋岸全域に大津波警報を示す赤いラインが点滅して映し出されるのを見入りながら、思わず連想してしまったのは、今は体験者に話を聞くことしかできない戦中の日本列島を覆った空襲だった。
 もちろん、戦争と震災は本質的にはまったく違う事柄だ。それを承知しつつも、あたかも空襲を受けているかのように錯覚しそうになったのは、「日本列島のどこがいつ、どんな破滅的な打撃に襲われるか予想すらできない。日本にはもはや安全なところはどこにもないのではないか」という強烈な感覚に、襲われたためだったろう。
 日本は東京をはじめ空襲で壊滅的な打撃を被りながら、戦後は〝奇跡の復興〟を遂げたというのが、戦後史を語る上でよく使われる言い方だ。そこで実現した「豊かで安全な平和国家」という日本イメージを、私たちはついこの前まで疑うことすらしなかった。だがその「平和と安全」に対する信頼は、恐らくは戦後初めて、今回の震災によって根底からずたずたに引き裂かれてしまったのではないか―。その感覚は、事態がその後の推移で福島原発の想像を超えた事故の全貌が明らかになるに連れて、確信へと変わっていった。
 戦後60年の2005年に、日本の戦後をとらえ直す企画を展開した際に、阪神大震災とオウム事件に彩られた「1995年」を一つの転換点と考えてみたことがある。高度成長からバブル経済へと至る繁栄と平和を享受した戦後日本が、震災によって豊かさの「亀裂」を目の当たりにし、さらにオウム事件を経験することで半ば神経症的とも言えそうな「安全」の掛け声に覆われていく。その大きな転機となったのが95年と位置付けてみたのだが、今となってみるとオウム事件以降の日本にまん延した「不安」に基づく相互監視社会の「安全」が、いかに表層的なものに過ぎなかったかということにあらためて気づかされる思いになる。恐らくは阪神大震災によって見えかけた日本の「安全」の脆弱さは、オウム事件をきっかけとする社会の「安全」の掛け声によってその本質にフタがされてしまったように思えてくるが、今回の東日本大震災が再び浮き彫りにしたように、本来の「安全」の根幹がなぜここまで、忘却され見過ごされたままで推移することができたのか―。今回の震災はいったいどのような転換を、私たちに突きつけたのだろうか?
 例えば「環境倫理」という考え方がある。世界的に環境破壊が注目され始めた1970~80年代に広がった概念で、「世代間倫理」「地球有限主義」などがその思想の中心軸とされる。それは、人類の無限の進歩を信頼することで成り立った「近代主義」に対するアンチテーゼとも言えそうな考え方で、地球は有限の存在であって、人間の欲望を無制限に解放するような余地はなく、無限の進歩を信じて自由な活動を追求することが逆に未来世代の選択の機会を奪い取ることにつながるという認識だ。現代を生きる私たちが現代人の合意のみに基づいて環境に対することは倫理的に正しくない。われわれは未来の世代に対する責任を本来は有しているはずで、未来世代の選択権までを視野に入れた〝世代間民主主義〟を構想するべきだ―。これは「環境倫理」の考え方を、かなり恣意的に意訳しているのかも知れないが、仮にこう考えてみると、今はだれもが真っ先に頭に思い描くのが福島原発の事故ではないだろうか?
 しかし戦後日本が一貫して立脚し続けたのは、このような考え方とは対極にある「進歩」の幻想だった。それは産業革命以降の近代西欧社会が生み出した観念だが、20世紀に入ると植民地解放の波に乗り世界へと拡大し、あらゆる国が成長と民主化の過程をたどると信じられるようになる。日本は19世紀半ばからアジアでは先駆けて「近代」への脱皮を果たしたことは周知の通りだが、戦後も空襲の焼け跡から「復興」が目指され、高度成長さなかの1970年に開かれた大阪万博では「人類の進歩と調和」が高らかにうたわれたのは、まさに戦後を象徴する出来事だったと言えるだろう。日本がその独自の底力で未来に向けて成長の一途をたどり、誰もがその恩恵を受けられるような豊かな社会を実現するという「成長の夢」。日本の原発政策もその夢の中ではぐくまれ、展開されてきたと考えることも可能だろう。
 実はヒロシマ・ナガサキの被爆者も、当初はその夢の中にいた。例えば全国の被爆者でつくる日本被団協の1956年の結成宣言には「破滅と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願い」とされた。この宣言の草案を書いた被爆者で「反核運動のシンボル」ともされる哲学者の故森滝市郎さんは後に、「かつては(私も)核の『平和利用』にバラ色の未来を望んだ」と痛恨の思いを込めて振り返りながら、「核と人類は共存できない」という核絶対否定の思想へと至っていく。
 しかし戦後社会は一般には、核の思想をそこまで突き詰めることもなく、一方で「核の傘に守られた唯一の被爆国」という平和国家幻想の中にまどろみながら、成長の上に成り立った平和と安定を素朴に信じ込んだままだったと言って、言い過ぎではなかろう。もちろん昭和のある時期で高度成長は止まり、日本はバブル経済期を経て停滞社会へと移行する。しかしそこで、長く信じられてきたものは結局は変わらなかったのではないか? 豊かさの中に成立した社会には、どこかで「神の見えざる手」のようなものが働いていて、人間が何をしても社会はいつか必ず安定均衡に至るという素朴な〝信仰〟のようなものの上に、われわれはつい先日まで暮らしてきたのではなかったろうか? そして今回の震災がもたらした深い亀裂の中に見えてきたものは、放っておいてもいつか人間を均衡へと導いてくれるような「神」は結局のところはいないのだという、驚くような、しかし厳然とした事実だったのではないか?
 われわれはもしかすると、あの震災を経てもなお、バラ色の未来を夢見さえすれば世界は安定するという「成長の夢」の中にいるのかも知れない。しかし、震災の亀裂に深く目を注ぎ込み、それが意味するものを見据えることで、未来の世代をも視野に入れた新たな世界観を手にすることができるのではないか? 震災の意味を考えるにつれ、こうした文明論的な視野の転換をも、今回の震災がわれわれに迫っているように思えてくるのだ。

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