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隔たりを超える道筋は? / 沖縄復帰40年に寄せて | 共同通信文化部 文化部長 金子 直史【配信日:2012/06/29 No.0208-0846】

配信日:2012年6月29日

隔たりを超える道筋は? / 沖縄復帰40年に寄せて

共同通信文化部
文化部長
金子 直史


 今年で本土復帰から40年となる沖縄は、今も日本本土と自らのアイデンティティーとの間で、文化的にも歴史的にも引き裂かれた存在であり続けている。米軍普天間飛行場の移設問題が膠着する中、「沖縄とは何か」という根源的な問いが若い世代から出され始めた。日本本土と沖縄の隔たりを超える道筋は、どう思い描けるのか?


 引き裂かれた存在―。20年前に住んだ沖縄のことを思い起こすたび、私にはそのような言葉が思い浮かぶ。当時の沖縄は1972年の本土復帰から20年を迎えており、私は共同通信那覇支局に所属して復帰以降の沖縄の変化を取材していた。そのころの沖縄は、アジアとの交易で栄えた明治以前の独立国「琉球王国」の時代が誇らしく語られ、沖縄戦で消失した王府・首里城が復元され、一方では沖縄のポップカルチャーが全国的に注目されるようになり、沖縄が自信を持ち始めたころだった。しかしその後、1995年の米兵による小学生の少女暴行事件を契機に浮上した米軍普天間飛行場の移設問題は結局は膠着状態に陥り、「県外移設」を求める沖縄の声は日本政府からも、米国政府からも、さらには日本本土の一般世論からも黙殺され続けている。
 今年は復帰から40年に当たるが、40年前に「等しく日本本土並みの『平和』の実現」を求めて日本へ復帰した沖縄の悲願は今も実現されず、あの小さな島に在日米軍専用施設の何と74%にも当たる広大な基地施設が集中する現実は、今も変わらない。地元紙沖縄タイムスは今年の5月9日付朝刊で、沖縄から基地が減らないのは「日本本土からの差別」と考える人が沖縄では50%に達するという世論調査結果を掲載した。「そもそも沖縄は日本なのか? あるいはそうではないのか?」―。沖縄の若い世代からは、このような根源的な問い掛けさえも上がり始めている。
 「ヤマト(日本本土)に初めて行った時、同じ国とは思えなかった。きれいな田んぼが広がり、基地がない! 基地があるのは当たり前だと思っていたのに、なぜ基地がないのか! その感覚は衝撃的で、沖縄は結局は〝植民地〟なんだ!と思った」。これは、今は沖縄で普天間飛行場の撤去運動に取り組む知念ウシさんという女性の言葉だ。
 そもそも沖縄に、ここまでの過重な基地が集中するのはなぜか? 現在ではアジアをにらんだ沖縄の「地政学的な位置」のためというのが、通例の説明の仕方になっている。普天間飛行場の「県外移設」を掲げて自壊した鳩山由紀夫元首相が、最後に依拠したのもこの「抑止論」と呼ばれる論理だった。しかし戦後の沖縄の経緯を振り返ると、それは後付けの理屈に過ぎないのではないかという気もしてくる。
 歴史的に見れば沖縄にここまでの基地が集中したのは、戦後に沖縄が日本本土から切り離され、米軍が思いのままに民間の土地を強制接収することができたからにほかならない。復帰前の沖縄は、米国が設けた琉球列島米国民政府の高等弁務官が最高権力者であり、米陸軍の将官から任命されていたためだ。米軍は基地建設のため沖縄の集落を破壊し、土地の大規模な強制接収を行った。その過酷さゆえに、沖縄では「銃剣とブルドーザーの土地接収」として語り継がれている。このため、沖縄の米軍基地内には今も沖縄住民の先祖伝来の亀甲墓が点在し、一族は米軍の許可がないとフェンスの中の墓に詣でることもできない。一方で本土では、戦後に作られた米軍基地は各地に広がった反基地闘争を受けて大幅に縮小されていき、海兵隊は沖縄に移転。今や本土においては米軍の姿は、横須賀基地など限られたところ以外では見えない存在になっている。
 沖縄在住の作家目取真俊さんはこの状況を指して、次のように言う。「日米安保は本来、基地の重圧を受け入れ、米兵の犯罪など基地からの暴力のリスクをも負担することで成り立つ。しかし日本本土はそれををもっぱら沖縄に押し込めて、日米安保による平和のみを享受してきた。平和維持のために安保が必要なら、なぜ本土は基地を負担しないのか。米兵による事件が起きても、東京では誰も身近にそれが起きるとは思わず、米軍って怖いよねで済んでしまう。基地の暴力に対するリアリティーが、本土と沖縄は決定的に違う」
 これはやはり、「日本本土による沖縄差別」と見なされても、仕方がない構造ではないだろうか? 知念ウシさんはだからこそ、普天間飛行場の沖縄県内での移設に抗議する県民大会では「日本人よ! 今こそ基地を引き取れ」という横断幕を掲げる。つまり、本土に住む日本人をあえて「日本人」と名指し、自分たちはその「日本人」と対峙する「沖縄人」と位置付けるのだ。そしてこのような発想は、沖縄の若い世代にも広がっている。
 那覇市議の平良識子さん復帰後の1979年生まれで、沖縄の地域政党・沖縄社会大衆党の副書記長も務める。その平良さんが高校生のころに、米兵による少女暴行事件が起きた。「沖縄はこの事件を受け、日本からの独立論・自立論で盛り上がっていた。自分たち高校生も、自分たちの沖縄っていったい何なんだろう…という議論をした。私も、沖縄はこんなにも平和を愛しているのに、何で沖縄からは基地がなくならないんだろうと思ってきた」と、平良さんは振り返る。
 沖縄の大学で平良さんは、「沖縄学の父」とされる伊波普猷の研究をする。伊波は明治から昭和にかけた近代沖縄を代表する思想家で、言語学や民族学の成果を基に沖縄の民族的な独自性を強調しながらも、明治政府が「琉球王国」を武力制圧して日本の版図に組み入れた「琉球処分」を評価し、日本と琉球は共通の祖先から分かれた同族と論じた。彼の考え方は「日琉同祖論」と呼ばれ、その後の沖縄に強い影響力を持っていく。戦前においては沖縄独自の言語は「沖縄方言」として「大和言葉(日本語)」の低位に置かれ、日本への「同化」を目指した方言撲滅運動が展開される。その結果が、沖縄が日本本土の防衛のための「捨て石」となったされる沖縄戦となる。そして戦後もこの「同祖論」が、米軍の施政権下の沖縄が「祖国復帰運動」へと雪崩を打っていく背景の1つともなった。
 知念さんによると、この感覚は今も続いている。知念さんは東京の大学で学び始めたころ、「まず日本人になろう」と考えたのだという。「沖縄は日本だから、という問答無用の思い込みがあって、それに違和感を覚える自分の感覚を抑圧していた」。しかしいつか、「結局は日本人中心主義を沖縄が受け入れ、それに奉仕するという構造が、琉球処分以来続いてきたのではないか」という認識に変わってきたという。
 平良さんも、近代沖縄の歩みを振り返り「日本と沖縄が同族と主張することで、沖縄の存在を高め、本土の沖縄に対する差別を転換していこうとしたのだろう。でも結局はそれが、本土によってうまく使われてしまったのではないか」と、相対化する。そこで平良さんが出会ったのが、「沖縄人」を「先住民族」と位置付けて国連に働き掛け、沖縄の「自己決定権」を目指す市民運動だった。
 「それを知って私は、『すくわれた!!あっこれなんだ!!』と直観的に思った。国際社会で議論されている『先住民族』の適用範囲を見たときに、沖縄が歴史的に抱え込まされてきた状況や、沖縄って何だろうと思い続けてきた自分自身の感覚が、すっきりと整理されたように感じた」と平良さんは話す。
 ここで冒頭の「沖縄は日本なのか? あるいはそうではないのか?」という問い掛けに戻ろう。もちろん本稿でそれに結論を出す積もりはない。「民族」の定義は多様で、言語学的にも民族学的にもさまざまな見方が可能だろうと思う。しかし、ここで強調したいのは、そのような問いを若い世代が立てざるを得ないような状況に、沖縄がこれまで常に歴史的にさらされてきたという厳然とした事実だ。
 引き裂かれた存在―。私は沖縄をこのように形容した。それは、歴史的には明治以前の琉球王国から明治国家による琉球処分、日本への「同化」運動と沖縄戦、戦後の米軍支配、そして日本復帰と広大な米軍基地の固定へと至る過程を振り返れば、それ以上の説明は必要ないだろう。そして、沖縄の若い世代はこの歴史過程を常に振り返ることで、今現在の「沖縄とはいったい何か?」という問いに答えようとしている。それは、日本本土の若い世代が歴史への関心を持たないと嘆かれる状況のまさに対極にあり、両者の間には目もくらまんばかりの隔たりがあるとさえ言えるだろう。その隔たりを私たちが、いったいどのようにして超えていくことができるのか? 少なくとも私を含めた日本の本土人には、その道筋を模索することを自らの課題として受け止める責務があると考えている。

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