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日中間の歴史的交流を通して考えるこれからの日中関係 JCMS(株)アジア交流塾塾長 井出 亜夫 【配信日:2018/7/31 No.0281-0282-1083】

配信日:2018年7月31日

日中間の歴史的交流を通して考えるこれからの日中関係

JCMS(株)アジア交流塾塾長
井出 亜夫


 日中平和友好条約締結40周年と両国の経済関係の進展に当たり、改めて古代以来の日中交流の歴史をたどるとともに、地球環境問題、拡大する格差社会等「21世紀の市場経済システム」が直面する問題を解くカギ・役割が東洋思想(儒仏道)にあることを論ずる。


日中平和友好条約締結40周年と日中経済関係の進展

 今年2018年は、日中国交回復から46年、平和友好条約締結40周年の年である。この間両国の貿易関係は著しい進展を示している。1990年日本の対中貿易は全体の3.5%、2000年7.4%(対米では1990年27.4%、2000年25.0%)であったが、2017年には、対中21.6%、(対米15.1%)となっており、改革開放による市場経済化の進展、世界第2の経済大国となった中国との経済関係の深まりは著しいものであることが確認される。

 ところが、近時の世論調査によると日本人の対中好感度は10%を割り、また、中国人の対日好感度も21%とここ10年来最低の水準にある。この背後には、領土・領海問題、経済摩擦、歴史認識等様々な問題があり、両国首脳の対話努力の欠如も大きく作用している。しかし、貿易・経済関係依存度、人々の往来の増大等両国関係は益々深まり、後戻りすることは出来ない。漸く、政治家もその現実を認識し、責任を自覚しつつあるようではある。

日本と中国-その交流の歴史

 さてここでは、もう少し視野を広げ両国の歴史的交流を辿り、両国関係の将来展望を論じてみたい。

 中国の正史に現れる日本は、紀元3世紀、倭国*の情勢と邪馬台国女王卑弥呼の存在を記録した「魏志倭人伝」を嚆矢(こうし)とし、また、『古事記』(712年)には、第15代の応神天皇(史実に疑義はあるが、4世紀末から5世紀初)の時代、百済から渡来した学者、王仁(ワニ)が『論語』と『千字文』を献上したことが記載されている。
 *古く、中国から日本を呼んだ称

 漢字の伝達は、万葉仮名からひらがなへの発展、日本文化への派生を生むが、大陸との往来は、遣隋使派遣603年、遣唐使630年から894年まで、古代において3世紀に及んだ。その後、平安以降日本文化の創造、発展も一方にはあるが、喫茶の伝来、禅僧の往来、宋銭の通貨としての使用、寧波を中心とする日明貿易等日中の交流は時を絶たない。

 東洋史学者、砺波護(となみまもる)京都大学名誉教授は『日本にとっての中国とは何か』の中で、(1)「朝貢と畏敬の国-邪馬台国と倭国」、(2)「憧憬と模範の国-飛鳥と平安」、(3)「先進と親愛の国-鎌倉から江戸」、(4)「対等と侮蔑の国-明治から昭和前期」、(5)「親愛と嫌悪ない交ぜの国-昭和中期以降」と日本人の中国観の変転を紹介している。

 「憧憬と模範の国」では、飛鳥、平安時代における交流において、607年「小野妹子」が聖徳太子の意「日出づる処の天使 書を日没する処の天使に致す 恙無きや」を受け、遣隋使として訪中する。また、遣唐留学生「阿倍仲麻呂」は長年唐に滞在、唐の高官となった後、「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と望郷の念から帰国に向かう。仲麻呂が遭難死したと思った李白は、「晁卿衡(ちょうけいこう・仲麻呂の中国名)を哭す」と題する五言絶句を創り、両者の友情、日中関係を偲ぶことが出来る。

 一方、「先進と親愛の国」では、宋代(960~1279)の景徳鎮に代表される陶磁器は、日本に伝来し、中国伝来のものに最も近いものを造ることが出来る陶工が日本の名陶と言われた。また、北宋の首都、開封の市街を描いた「清明上河図(せいめいじょうがず)」には、運送屋、両替商、食堂などが描かれている。日本の中国史家は、宋代において中国では近世が実現していたと評した。その影響は遥か下って、京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた「洛中洛外図」として、室町~江戸時代を通して数多く描かれている。

 儒教から派生した学問体系である朱子学は、徳川幕府(1603-1867)公認の学として導入されたが、儒学者、荻生徂徠(1666-1728)は、儒教の原点、孔子、孟子に戻ることを主張し、また、中国の儒学者、王陽明が興した陽明学を学んだ大塩平八郎(1793-1837)は、その命題である「知行合一*」の思想を実践し、貧民救済の乱を起こした。
 *「知は行の始なり、行は知の成るなり」(行動を伴わない知識は未完成である)。

 「対等と侮蔑の国―明治-昭和前期」において、明治維新による日本近代化の影響の下、多くの中国人が自国の近代化を求めて来日するが、日露戦争後の日本は、歴史学者、朝河貫一博士(イェール大学教授)が『日本の禍機』(1909年)で警告する意味を理解せず、世界史の軌道を外してしまった。対華21か条(1915年)の要求の後、中国の政治家、孫文は「日本は欧米帝国主義の走狗となるのか、アジアの王道を開く先駆者となるのか」と述べ日本を去ったが、わが国は満州事変、日中戦争への道を歩んでしまった。

 松尾芭蕉(1644-1694)の『奥の細道』には、「松島は扶桑(日本)第一の好風にして、凡(およそ)洞庭・西湖を恥じず」と、伝えられる中国の名所に敬意を表しつつ描写しているが、1901年発表の唱歌『箱根八里』で、「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず [中略] 蜀山道数ならず」と詠う歌詞は明治の驕りの表れともいえよう。

 そうした中でも、東北大学の前身である仙台医学専門学校に留学した魯迅を見守る藤野先生や魯迅文学の出版を支援した内山書店の店主内山完三、孫文の独立運動をサポートした宮崎滔天、梅屋庄吉、犬養毅等多くの日本人の存在は、近代日中交流の歴史に一抹の光を放っている。

東洋思想と永続企業

 過日、日本を訪れた中国からの企業研修グループは、何故日本には、200年、300年と歴史を有する企業が数千社も存在するのかと私に問い、私は、江戸時代300年に及ぶ平和の存在とビジネスにおける『論語と算盤』(殖産興業の父、渋沢栄一著)を紹介し、義と利のバランスを図る東洋思想の所以にあることを説いた。

 儒教、老荘思想あるいは仏教思想の中に、永続企業存続の秘訣があるだろう。特に経済のグローバル化の進展の下、地球環境問題や、拡大する格差社会にどう取組むか、「21世紀の市場経済システムは永続できるか」という問題に私たちは直面しているが、論語、孟子、菜根譚等、儒仏道の東洋思想には、その解を説く要素が多数存在することを改めて痛感する次第である。

世界における日中の役割・責任

 第二の経済大国として発展を続ける中国の習近平政権は、アヘン戦争以来の中国近代史の苦悩を振り返り、中華民族の再興を訴え、国民全体が程々豊かになる国(小康社会)達成、三農問題(農村、農民、農業)、先進近代工業の建設、環境問題の解決、一帯一路等を目指した取組みを進めている。こうした課題で着実に実績を上げることが出来るかが、今後の政権評価に繋がる。

 こうした中国の近現代化のプロセスの中で、わが国としては、(1)日中関係の長い交流の歴史を想起し、(2)わが国近代化の成功と失敗の歴史を評価、反省しつつ、また、(3)今日の市場経済の欠陥を克服する共通の東洋思想で意見交換を交えつつ、(4)日中関係の良好な将来を展望していくことが求められる。そして、それが、日中両国の共存共栄に繋がり、また、それが世界史における両国の責任と役割を果たすことにも通じよう。


執筆者プロフィール
JCMS(株)アジア交流塾 塾長 井出 亜夫

1967年、通商産業省(現経済産業省)入省。OECD日本政府代表部参事官、中小企業庁小規模企業部長等を経て、経済企画庁(現内閣府)において日本銀行政策委員、国民生活局長、経済企画審議官等を歴任。その後、学界に転じ、慶応義塾大学教授、日本大学ビジネススクール(NBS)教授及び同研究科長を務め、現在に至る。国際関係でも、中国の環境と発展に関する国際委員会WG議長、ISBC(国際中小企業会議)代表幹事等を務めた。


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