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配信日:2010年12月20日

外からの視線と文化の力

共同通信文化部
文化部長

金子 直史


「クール・ジャパン」は海外からの視線を受けた形で生まれた、新しい日本の自己認識だが、結局は日本が繰り返してきた海外からの文化の逆輸入と見ることもできる。今、必要なのは、新しい日本のブランドイメージに浮かれてしまうことではなく、より地道に文化の芽を、時間をかけて育てていくことではないか。

 「世界が共感するクール・ジャパンを日本人自身が再発見する」。これは経済産業省が2010年11月2日に東京の明治神宮外苑で開催したイベント「COOL JAPAN TOKYO―CONFERENCE」で、開催目的に盛り込まれた言葉だ。マンガやアニメ、若者ファッションなど、世界から「クール・ジャパン」として高く評価された文化ジャンルを、日本人があらためて再認識する必要があると強調される訳だが、逆に言えば「再発見」という言葉には、ポップカルチャーをはじめとする新しい文化の価値を日本人自身はこれまで理解できず、見過ごしたままで推移してきたという事情が、率直に表されている。「クール・ジャパン」が何かを一番知らないのは、日本人だとも言われる。つまりこれは文化の一種の「逆輸入」なのである。しかし、これは何を意味するのだろう? 日本が自らの内にはらまれている未知の可能性に対する感度が、弱いということなのか? あるいは海外の視線をそのまま受け入れることでしか自らの価値を認識することができないという傾向を、表しているというべきなのだろうか?
 「クール(カッコいい)」という言葉が、日本文化を形容するようになったのは、米国のジャーナリストであるダグラス・マッグレイが02年に米誌「FOREIGN POLICY」に発表した「Japan’s Gross National Cool」という記事が、03年に「中央公論」に邦訳され、日本の「文化力」に注目が集まったことが端緒とされる。マッグレイはそこで、ポケモン、宮崎アニメ、若者ファッション、食などの日本のポップカルチャーの世界的な影響力に着目し、「国民総クール」という指標で日本に高い評価を与えた。
 それまでの日本は、漫画、アニメ、若者ファッションといったポップカルチャーに、相対的に低い評価しか与えてこなかった。それはよく言われるように、欧米から日本を見つめる視線をあたかも自らの基準であるかのように内面化してしまった結果、例えば文学であれば日本的なエキゾチシズムをにおわせる川端康成や、欧米の文学理論を積極的に小説作法に取り入れた大江健三郎らのようなノーベル文学賞作家を、日本の文化水準の指標としてきたことに表れている。そしていわゆる社会風俗≠ヘ戦後日本でも長く、一段低い存在と見られ続けてきた。今の「クール・ジャパン」を代表する漫画やアニメ、若者ファッションは、特に日本の知識人からは論評するに足りないものと見なされてきた経緯がある。今はノーベル文学賞の有力な候補として名前が取りざたされる村上春樹は、日本の純文学≠フ登竜門とされる芥川賞を受けることができず、社会風俗≠軽いタッチで描く作家だとごく最近まで考えられていたほどだ。
 そこでは恐らく、文化とは「ハイカルチャー」のことであり、近代欧米の作法を十二分に学んだ知識人が形作るもので、「サブカルチャー」はそうした教養を欠いた大衆≠ェ有為転変で移り変わる風俗の世界で戯れるのだと理解されていたと思う。もちろん、そうした欧米に模範を求めるハイカルチャー志向を批判し、大衆の力強い想像力こそが本当の文化を創っていくのだと考える思想家はいた。例えば吉本隆明がそうで、「大衆の原像」という言葉を使いながら、大衆の奥底にある見えない活力を見いだすのが知識人の役割であって、欧米の図式を安易に日本の現実に当てはめるべきではないと説いた。
 しかし多くの知識人はそうは考えず、例えば最近の少女のファッションにおける「Kawaii」という言葉の国境を越えた広がりについて、知り合いの欧米派ジャーナリストは「美術家の村上隆のようなポップアートならともかく、Kawaiiが日本イメージになるのは恥ずかしい」といった趣旨のことを話していた。村上隆の美術作品はニューヨークなどのアート界で既に認められている。つまりこの発言の背景にあるのは、欧米でオーソライズされるかどうかが全ての価値判断の源泉であり、自らの価値を自らの基準で見いだす主体的な判断を最初から放棄した姿勢であると、言わざるを得ない。そして今は「クール・ジャパン」の掛け声の中で、今度もやはり欧米の視線を受ける形で自らの価値を「再発見」しようとしているさまは、ほとんど滑稽であるとさえ言えるだろう。
 これに対し、大衆の奥底にうずまく無定型な活力の中から生み出されていった文化の力は、欧米派知識人の皮相な文化観をはるかに越えてしたたかだ。共同通信は2010年に「日本の実力」と題する年間企画を手掛けたが、セレブにも人気のハローキティ、美少女戦士セーラームーン、写真シール作成機「プリクラ」などが世界へ広がる中で、ある記者は若者ファッションの聖地「原宿」の小さなショップが米国サンフランシスコに出店した様子を取材し、集まった米国人の女の子が「Kawaii!」と歓声を上げる様子を紹介しながら、原宿の「伝統やルールにとらわれないストリートの自由な感性」が新しい文化を生み出す「源泉」だと書いた。京都精華大で06年に全国で初めて新設されたマンガ学部には、韓国籍の学生を中心に中国や台湾、イタリア、スウェーデンの留学生もおり、韓国からの学生は「MANGAを学ぶには日本でないと。クラシック音楽を学ぶのにヨーロッパに行くのと一緒」と語る。テレビのバラエティー番組では、参加者が巨大障害コースに挑むTBSの「SASUKE」が、番組の企画や構成を売る「番組フォーマット販売」の形で、米国をはじめ世界約百カ国に販売されている。
 関係者が口々に言うのは、日本発の文化の欧米とは異なる魅力だ。例えば「SASUKE」のフォーマットに基づく「Ninja Warrior」を06年から放送する米ケーブルテレビ局G4のプロデューサーは、「米国が重視しがちな人との競争そのものより、難関を克服する参加者の自分自身への挑戦が緊迫感やドラマを生む」と、日本発フォーマットの魅力を語る。「Kawaii」のファンで原宿を訪れた米国人少女は「『kawaii』という言葉はキュートとも違って、もっとエモーショナルで感情を込めて使う。アメリカにはないもの」と言う。日本の出版社がタイの企業にライセンス提供し、タイのファッションバイブルとなっているファッション誌「SCawaii!」の読者モデルの少女は「欧米のファッションは強いイメージだけど、日本のはソフト」なところが大好きな理由だと語る。ここには日本発の文化が、新しい人と人、文化と文化、地域と地域との結び付きを確実に形成し始めている様子が見て取れる。
 日本の対外イメージはこれまでは、世界でも類いまれな「経済力」を基盤に形成されてきた。米国の社会学者エズラ・ヴォーゲルによる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉は、そのまま日本の自己認識でもあった。しかしバブル経済の崩壊後、日本の自己像は空白期に入る。そこに新たに浮上したのが「クール・ジャパン」で、今度は「文化力」を基盤にした自己像の形成が図られようとしているのが現在の姿だ。ただ、そこで試みられるのが単に日本の大衆文化を「クール・ジャパン」のブランドを冠した商品として売り出そうということならば、それはこれまでの日本が散々繰り返してきた、欧米の視線に一喜一憂する欧米化狂騒曲≠フ二番せんじになってしまうのではないだろうか。

 「クール・ジャパン」は大衆の奥底に根差した活力、創造力のみを糧に生み出されてきた文化だ。しかし例えばマンガの制作現場にせよ、クリエイターを志す若者たちは自らの将来の夢だけを信じ、劣悪な制作環境の中で日々を過ごしているのが現実と聞く。今、必要とされるのは、外からの視線でブランドという名のラベリングをし、それを利用し消費することではなく、より根っこの部分での創造的な環境を時間をかけて作り出していくことではないか。それはもっと地味であり、時間がかかる作業だろう。しかし、もし日本の「文化力」を本当の意味で見いだそうとするのであれば、まだ形すら見えない新しい文化の芽の土壌を耕し、長い時間をかけて育てていくことなのではないかと考えている。
 
 
 

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